東京に強い全国対応のイベント会社

東京の地名

1868年9月に明治天皇が発した詔勅「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書(えどをしょうしてとうきょうとなすのしょうしょ)」により、「東京府」が設置されたことに始まります。
1889年5月1日に、東京15区を東京府から分立して、東京市としました。東京市は1923年の関東大震災によって人口が増加した周辺の町村を合併し、市域は最終的には現在の東京都区部とほぼ同地域となりました。
1943年7月1日に、東京都制が施行され、東京府と東京市は廃止されて東京都が設置されました。

以下、東京各地の地名の由来もいくつかご紹介します。

■浅草(あさくさ)(台東区)

「武蔵野の末にて草もおのづから浅々しき故浅草と云しなるべし」が地名の由来の定説とされています。
武蔵野の身の丈を覆う「深草」に対し、背丈の低い草が多かったことから「浅草」とする説や
アイヌ語の「アツア(アチャ)・クサ」(海を越える)からとする説など諸説あります。
浅草の地名はかなり古く、奈良時代には浅草寺の寺名とともに知られていたようです。

■勝どき(かちどき)(中央区)

日露戦争の勝利を祝して、築地と月島の間を結ぶ渡船場を設置されました。それが「勝鬨の渡し」です。
後に「勝鬨の渡し」は「勝鬨橋」となり、近辺にあった町の名前にもなりました。
「鬨」を漢字でなくひらがなで「どき」と書くのは、この字が当用漢字にないためです。

■神田川(かんだがわ)(台東区、中央区)

「神田」の由来は、伊勢の皇太神宮へ奉納する稲を作る、御田(おみた=神田(しんでん)があったことから、付けられました。
川の名前の由来は神田山を切り開いて通した川だからとか、神田一帯を流れる川だとか諸説あります。

■錦糸(きんし)(墨田区)

錦糸という単語は錦糸堀からきています。
錦糸堀は、東西に走る南割下水の大横川より東側の呼び方で、これに沿う地域の俗称にもなりました。
堀名については、岸堀がなまった説や、水面がきらめく様を「錦糸」に例えたとする説、近隣で琴糸の錦糸をつくっていたなど諸説あります。

■小伝馬町(こでんまちょう)(中央区)

この地は、江戸以前から奥州街道に沿った宿駅で、六本木といわれていました。
1606年江戸城拡張に伴い、城郭内で伝馬(宿場から宿場へ物資を運ぶ馬のこと)、荷駄の役を務めていた千代田村の駅家が移ってきて、小伝馬町となりました。
同じく移転した宝田村は、馬家(うまや)が多かったので大伝馬町とよばれました。

■隅田川(すみだがわ)(台東区、墨田区、中央区、江東区)

隅田の名称は、この川に対する美称で、澄んだ美しい川の意味ですが、説はさまざまあるようです。

■日本橋(にほんばし)(中央区)

町名の由来はそこに架けられた橋名によります。
橋の名前の由来は江戸時代、町割を行った時に、五街道の起点として、諸国への行程の中心であることから架橋命名されました。
時代は流れて東京都にあった日本橋区と京橋区が合併して中央区ができることになりました。

■人形町(にんぎょうちょう)(中央区)

江戸時代、ここには中村座、市村座などの歌舞伎や操り人形芝居が行われ、人形を作る家が多かったため、人形町と呼ばれていました。
昭和8年に一部近隣の町も統合し、正式に人形町となりました。


■深川(ふかがわ)(江東区)

慶長年間、摂津から来た深川八朗右衛門が当時湿地帯だったこの地域の開拓に力を注ぎました。
深川の地名は徳川家康が彼の実績を賛えてその名字から名づけたものです。

■夢の島(ゆめのしま)(江東区)

昭和14年から造成されたごみの埋立地です。
当初、飛行場や遊園地の建設も計画されており「夢の島」と都が名付け、地名になりました。


■両国(りょうごく)(墨田区)

武蔵国と下総国は隅田川を境としていましたが、1659年に大きな橋が架けられ、両方の国をはさむという意味から両国橋の名がつきました。
その西詰には見世物小屋が並び、近くの柳橋は料亭の街となりました。
いっぽう東詰には明暦の大(1657年)の死者を埋葬した回向院があり、1781年以降、境内で観進相撲が行われました。
この両詰の地域を、橋の名を採って両国と呼ぶようになりました。

↑このページの先頭に戻る