自分史 梶川の人生公開SP

2020年10月1日 │

こんにちは。東京支店サブセクションチーフの梶川です。

今回は生まれてから今日にいたるまでの自分史を書きたいと思います。

ちなみに自分史とは何のか、何のために書くのか調べてみたので、簡単に説明します。

自分史とは、「自分のたどってきた人生を様々な手段で表現したもので、“セカンドステージ”をデザインするためには、“ファーストステージ”を見つめなおすことが重要で、そのために自分史を書くべきである」ということのようです。

なので今回の自分史は、セカンドステージをより豊かにするために、ファーストステージを見つめなおすつもりで書いていきます。

まず、簡単なプロフィールからご紹介します。

名前:梶川 涼(本名:矢口 涼)

年齢:28歳

出身:奈良県

趣味:野球

名前のことや趣味のことにも触れながら書いていきたいと思います。

出生~幼稚園

正直、全くこの期間のことは覚えてないですし、あまり写真も残ってなくて、自分で自分のことを知らないんですが、割と大きな体重で生まれたみたいです。

「涼」という名前は9月11日生まれなので、涼しい季節に生まれたということが理由と聞いています。当時はまだ9月は涼しかったんですよね。今では残暑がまだ残る季節ですね。

僕には兄と弟がいて、3兄弟の真ん中です。兄も弟も漢字1文字の名前で、両親が名前は1文字にしたかったみたいです。

本当に幼稚園のことは何も覚えてないですが、コマ付きの自転車に乗っていたことだけ覚えています。笑

小学校入学~中学校卒業

小学校入学してすぐに、今の僕の趣味でもある、少年野球を始めました。

ですが、最初はめちゃめちゃ嫌々行っていた覚えがあります。

父親が野球が好きで子供にはどうしても野球をさせたかったということで、強制的に少年野球を始めることになりました。

それでも毎週行っていましたが小学校4年生のころくらいまで、野球が嫌いだったことを覚えています。

昔は強制的に野球を始めることになってしまったことに対して、父親を恨んでいるほど嫌でしたが、今では野球というお金も面倒もかかるスポーツを高校までやらせてくれて、本当に感謝しています。

今の自分が形成されているのは野球でのコミュニティが大きいですし、友人も野球があったから、大人になってからもつながることができています。

そして、だんだんと小学生の高学年になってきて、野球の楽しみも分かってくるようになりました。6年生のころには少年野球チーム(城ケ丘エンゼルス)のキャプテンを務めさせてもらいました。

チームの中で一番野球歴が長かったというのもありますが、このころから目立ったポジションにいることは好きだったなと思います。

ただ、小学生ながらあんまりうまくチームをまとめることができていないなと感じて、人生の中での初めての挫折をこの時に経験したと思います。

あまり言葉でみんなを引っ張ることができなかったので、プレーで何とかキャプテンとしてチームを引っ張りたいと練習を頑張ってたのを思い出します。

その後、中学では中学野球部には所属せず、硬式野球のクラブチームに所属しました。体づくりの為、中学の部活では陸上部に所属しました。

正直、友人の話でも中学時代が一番楽しかったとよく聞くんですが、僕は中学時代が一番人生の中で楽しい思い出が少なく、もはや辛かった時間の方が長い時期でした。

少年野球ではキャプテンを務めていた僕ですが、中学に上がると井の中の蛙状態で、野球が上手な人はたくさんいました。クラブチームの中ではあまり活躍できないことが多く悩んでいました。野球している人独特のノリのようなものにもついていけず、チームメイトと馴染めない状態だったために、中学2年の時にクラブチームをやめる決断をしてしまいました。

当時はもう自分がポジティブに野球を楽しみながら努力するには、今の環境を何とかしたい、正直逃げる形にはなるけど、辞めるしかどうしようもないと思っていましたが、高校卒業までこの決断にはよかったと思うことと、後悔と思うことの半々な感情がずっと残りました。

ただこの決断があったからこそ、もう逃げたくないと思い、高校野球を最後までやり切れたと思います。

その後、中学では陸上部から野球部に部活動を変えて、野球は続けました。

同時期に塾も行き始めて勉強にも興味を持ち始めました。

高校の進学はすごく悩みました。ただ、兄がそのころちょうど高校野球の真っただ中で、地方大会で活躍している兄の姿を見て同じ高校に行きたい決めました。

高校入学~高校卒業

僕と兄は3つ離れているので、兄と同じ奈良県立登美ケ丘高校に入学しましたが、入れ違いなので一緒に学校生活を過ごすことはありませんでした。

高校入学してすぐに同じ野球部のマネージャーと交際することになったのですが、それが同期や先輩にバレて、入学してすぐにみんなから1年間くらい干されてしまい、高校生活の始まりは有頂天から一気に地にたたきつけられました。

この時の経験から謙虚を学びました。今でもまだ勉強中ですが、この時は特に周りを見ようとせず、自分だけの考えで突っ走ってたいたなと思いだします。この当時、それに気づくのに1年もかかりました。

今の環境になって思うのは、どんな時でも本気本音の言葉って本当にありがたいなということです。

高校野球生活は本当に体力的にも精神的にもきつく、部活の公式な年間休みは7日間ほどしかなかったと思います。ただ、本当に3年間やり切った時には感じたことない充実感と達成感がありました。試合はベスト16で負けてしまったので悔しい思いもありますが。

また、高校野球が終わってからやっと、本当の意味で両親に感謝することができ、初めてきちんと面と向かって感謝の気持ちを伝えることがこの時できたと思います。

夏の高校野球が終わり、僕がこの高校生活の中でどうしてもやりたかったことが1つあり、それを達成させるために本気で動き出しました。

それが文化祭です。すでに僕は文化祭実行委員会委員長に立候補しており、この登美ケ丘高校の文化祭を今まで以上に盛り上げたいという夢みたいなものがありました。

今、務めているブランド力向上委員会委員長のサマコンと繋がるところあるなーと感じます。

なぜそう思ったのかは1年、2年と参加していて、漠然ともっとこういうことしたら楽しいのになと思ったけど、参加してるだけじゃ実現できないなと感じて、自分で文化祭を新しく楽しいものに変えたいと思ったんですよね。

ただ、僕が文化祭の委員長を務めているときに社会的に店の衛生面が問題視されだしたんです。そのせいで、模擬店中止にするという風に学校側から言われてしまいました。

ただ僕はどうしても模擬店は継続させたかったので、3年生の同級生全員にお願いして、模擬店継続希望の署名を集めて、約200人分の署名を学校に提出して、担当の先生と衛生面の対策を考えて、何とか継続させることができました。

この時からやりたいと思ったことは何が何でもやりたいという気持ちと行動がセットでできるようになったきたと思います。

実際の文化祭では毎年行っていた体育館のステージコンテンツとは別に、新しく屋外にサブステージを設置して、どの時間帯でもコンテンツを行っているようにしたり、体験できるゲームイベントを開催しました。

その結果、僕の中ではやりたいこともでき、昨年よりも盛り上がった文化祭にできたんじゃないかと思います。

きっとこの経験がイベント会社で働きたいと思うきっかけになったのかなと、今では思います。

大学入学~大学卒業

大学は高校の指定校推薦で龍谷大学経営学部に入学しました。

本当に今では大学進学してよったなと思っていますが、当時はパティシエになりたい夢があったので、調理の勉強ができる専門学校への進学を希望していました。

しかし、親から反対があり、親の言葉を聞くことにしました。

大学に通いながらもケーキを作る練習を自分でしていてたので、今ではお菓子やケーキ作りは趣味の一つになりました。

大学では大きなコミュニティが2つできました。

それが「軟式野球同好会」と「龍谷大学奈良県民会」です。

どちらもやりたいことの為に自分で立ち上げました。

まず、軟式野球同好会なんですが、龍谷大学に軟式野球部がないため、将来的に軟式野球部として活動できるようなチームで野球がやりたいと思い、チームを作りました。同じように野球をやっているサークルはたくさんあるんですが、「軟式野球同好会」では公式に各大学が行っているリーグに参加することを目指しました。

申請には1年ほどかかりましたが、京滋リーグという公式リーグに参加することができました。このリーグに参加している他大学は公式な野球部ですが、龍谷大学だけが同好会として、今も参加しています。

発足した当時約10人くらいだったメンバーも、今年で11年目を迎える同好会は30~40人規模になり、京滋リーグ代表として、西日本大会に出場するくらいになったと聞いています。今でも後輩たちがチームを続けてくれているのはとても嬉しいです。

次に「龍谷大学奈良県民会」、通称「奈良会」と作った理由としては、大学に入学してすぐに友達はたくさんできましたが、卒業した後、この大学内だけで話している友達はどうなるんだろうと考えた時に、どんどん会う機会がなくなってしまうことを感じたので、1年に1回はみんなで集まって会うことができる友達を作るために「奈良会」を作りました。故郷が同じ友達であれば、お盆や年末年始、結婚式などで毎年会うことができて、一生の友達になれると考えました。

活動内容としては旅行行ったり、飲み会したりする程度です。

完全に自分のつてだけで最初は10人集めて始めましたが、こういう団体があるという噂が次第に広まり最大で約40人の参加規模になりました。

卒業してから実際に集まる人数は15人程度になりましたが、目的通り毎年集まることができています。

クツワ株式会社時代

新卒として入社したのは東大阪市に本社のある「クツワ株式会社」という会社です。この会社100年以上続いている会社で、子供向けの文具メーカーです。

有名な商品はプーマの筆箱です。プーマの文具の版権を所有している為、プーマの文具はすべてクツワ株式会社の商品になります。

僕はこの会社に営業職として入社したんですが、在籍した2年半は営業ではなく、商品管理課という部署で内勤をしていました。

メーカーなので入荷した商品に問題ないかロット検品を行ったり、商品の故障などのクレームに対して商品改善を提案したり、新商品の検証を行ったりする部署でした。

当時、仕事環境に大きな不満はなかったんですが、とにかく毎日のルーティン業務が地味でつまんない気持ちでした。

そんな気持ちから入社2年目の9月ごろに転職を考え、いろんなホームページを見ていたら、「イベント21」に出会いました。

イベント会社を探してたんですが、地元奈良県の会社と知ってすぐに興味がわきました。またコアバリューの恩送りを見て、以前から僕も恩送りという言葉大切にしていたので、共感することができました。

それからFacebookをいいねして、社長ブログを毎日見るようになりました。

社内の様子など働いている方の楽しそうな雰囲気が知れて、「イベント21」に対する興味が一気に高まりました。ただ、僕はこの感情は一時の感情かもしれないという気持ちと、今働いている仕事も辞めたいわけではない状況だったので、社長ブログを1年間見続けてそれでもまだ、イベント21に興味があれば面接を受けようと決めました。

それから1年がたち、9月11日の誕生日の日に中途採用エントリーを出しました。

当時のエントリーシートの質問が難しくて、少し心折れそうになりましたが、頑張って宇宙に対するハッピーも考えました。

イベント21 1年~2年目

面接時に大阪支店の配属を希望した為、入社1年目から新設される大阪支店にオープンメンバーとして配属されることになっていました。

オープンまでの約3か月間は奈良本社で勤務させて頂きました。スタートアップメンバーになるということと中途入社という事で、他の人よりも3倍の努力が必要だということで、その時の先輩には熱心に指導して頂きました。

それから大阪支店で勤務する事になりましたが、結果的には約3ヶ月後に無断欠勤をしてしまい、約1週間休んだのちに、久賀さんに仕事を辞めたいという話をすることになりました。

久賀さんとマネージャーの三人で面談して頂いたのですが、無断欠勤して辞めたいといった僕に対して、働く環境を変えてみないかと提案してくださいました。

その提案を受けて、図々しくも東京支店で働きたいと伝え、奈良本社に戻る事を準備してくださってたのを覆してしまいました。

それでも東京支店に移動する事も受け入れてくださり、すぐに準備を進めてくださり、社長からも電話を頂きました。社長からは「梶川君はうちに合ってるから、今やめるのはもったいない。東京支店ええやん。」って言って貰えたことを覚えています。

それから6/21付で東京支店所属として働く事になるんですが、ここでこんな自分を受け入れてくれた東京支店と、今まで関わってくださった関西のみなさんに関東で成長した姿を見せて、いつか東京支店の支店長になるくらい成長して、会社に貢献して、みなさんに恩返ししたい!と覚悟を決めました。

東京支店に来てからは、まだあまりイベント知識もない僕を色んな現場に連れて行ってくださり、営業としてもやりたいように挑戦させて頂きました。

その環境があったおかげで、東京支店に来てから1か月後、プロ野球球団の西武ライオンズから問い合わせがあり、プロ野球の仕事をすることが夢だった僕に挑戦させて頂きました。

本当に小さいころからファンだった夢の球団と仕事させて頂ける、こんな楽しい仕事ないなって思うくらい嬉しかったです。また、父親もライオンズファンなので、イベント期間中に父親を試合に招待し、仕事を通じて父親に親孝行をすることが出来ました。

それからは営業として少しずつ結果も出せるようになり、2年目からはサブリーダーとしての役割を与えて頂く事になりました。

イベント21 2~3年目

2年目はチームWのサブリーダーとしてスタートしました。

チームリーダーが後輩だったという事もあり、自分がサポート、フォローして引っ張っていかないと!と思う気持ちと、自分がリーダーとしてチームを持てなかった悔しい気持ちが入り交じり、チーム始まって直後から、高橋さんとは何度も衝突しました。

それでもそのたびに何度も話し合いを繰り返し、少しずつチームとしてお互いを支え合える関係なっていったのかなと思います。高橋さんが諦めずに本気本音で話して、期待もしてくれたからこそ、自分自身は来期リーダーに上がることができ、チームWが終わるときには最高のチームだったなと僕は思うことが出来ました。

個人の営業としては2018年2月度から2019年5月度まで16カ月連続粗利目標達成をすることができ、経営方針発表会では営業エース賞を頂くことができました。

この経営方針発表会では、公式に皆さんの前で成長した姿を見せることができ、お世話になった奈良本社、大阪支店、東京支店に感謝の言葉を伝えることができたのはとても嬉しかったです。

イベント21 3~4年目

3年目はついにリーダーとなり、チームKJを持つことになりました。

またブランド力向上委員長として第3回東京サマーコンベンションの運営を置こう事となりました。

KJでは物江さんが新卒としてチームに加わってくれて、最初の3ヵ月、どうにかしてこのやる気満々な子に成功体験を積ませてあげたいと思って必死に営業サポートを行いました。もちろんほとんど彼女の実力ですが、決定率は常に高く、入社3カ月目には単月粗利100万越えを達成してくれました。

同時進行でサマコン準備を行っていたので、イベント21に入社してから一番体力的にきつかった3ヵ月だったなと今振り返って思います。ただこの3ヵ月は僕にとっても大きな自信になりました。

そして、サマコンのアワードでは物江さんがプラチナルーキー、柴田さん、森田くんがリスペクトシニア、僕がビックボスを頂くことができました!

当然、物江さんが受賞したのは嬉しかったですが、それと同じくらい柴田さん、森田くんを壇上にあげれたことが嬉しかったです。

サマコンから4カ月経ち、物江さんが福岡支店長になる事が決まり、森田くんがフォローする形で福岡支店サブセクションチーフになる事になりました。

自分のチームから役職者に挑戦する人が2人も出てくれたことは本当にうれしかったし、とても刺激になりました。そして僕も東京支店サブセクションチーフに挑戦する事になりました。

チームとしてはその挑戦が評価され、経営方針発表会ではグレイトチーム賞を頂くことができました。チームリーダーとして1年間目指してきた賞だったので、改めて頑張ってきてよかったなと思えました。

11月頃には社長ミッションにも参加させて頂き、愛知に行きました。そこの飲み会の席で愛知同友会の皆さんに「2年後支店長になります!」って宣言したことが早くも実現する事になり、改めてイベント21のスピード感を感じています。あの宣言は自分の中でも覚悟となり、アウトプットできてよかったと思っています。

そして、この年の3月22日に東京支店の先輩である矢口志帆さんと結婚する事になりました。

4年目~現在

2020年4月からはコロナの影響が大きくなり、会社として出勤調整を余儀なくされました。

そして6月となり、緊急事態宣言は明けたが、まだまだ出勤調整が続く中、サマコンの準備が始まりました。

全員が東京に集まる事は出来なくなってしまったが、リモート中継で、初のベトナム参加を試み、第4回ワールドサマーコンベンションを開催することができました。

当日は試行錯誤しながら何とか最後までやりきることができましたが、イメージ通りに進めることができず、悔しい結果となりました。この悔しさが成長を生み出すと思い次につなげていきたいと思います。

そして、そのサマコンから約1ヵ月後、埼玉支店長のお話を頂き、引き受けさせて頂きました。

さいごに

拠点長に挑戦させて頂くことに関して、一度はやめる事を宣言した人間にも関わらず、チャンスを与えて頂き、期待と信頼をかけて頂き本当にうれしく思います。

やっぱり僕は大阪支店から東京支店に異動したときから変わらず、会社に貢献できる存在でありたいという気持ちが一番にあるなと、この自分史を書いていて思いました。

また改めて仕事となりたい自分や夢を重ねることができる、イベント21の仕事が好きだし、最高に楽しむことができると感じました。

そして自分としては後輩の成長だったり、誰かの成長に関る事にやりがいを感じますし、自分の事のようにうれしく思います。

僕が拠点長として、上記3つの➀会社への貢献を優先できる組織、➁仕事と夢を重ねて実現できる環境、➂周りの成長をやりがいとして楽しめる人材育成、を大切にしていきたいと思います。

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この記事を書いた人:

梶川涼

東京支店 サブセクションチーフ

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イベント21東京支店

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